『見て覚えろ』の後ろには屍の山がある
ちょうど職場でも新しいメンバーの教育問題がいろいろ議論されているところで、この記事を見て思ったこともいくらかあったのでつらつら書きなぐってみます。
上の人がみんな「俺は見て覚えた」というのは生存者バイアス(の可能性が高い)
どことは言いませんが、マニュアル化された教育法がない世界では確かに「自分は先輩を見て覚えた。だからお前もそうしろ」という言説をよく見かけます。できる上の人達はみんな口をそろえて言うため、それに従えば自分もできる人になれるのか、と思ったり思い込んだりしてします。しかしそれは「上を目指していた人たちが全員そのように上へあがっていた」のではなく「そのような教育方法でも生き残った人たち」なのであり、ただの生存者バイアスに過ぎません。そのやり方についていけなかった人たちがその組織・業界を去っていった結果、残った人たちなのであって、その後ろには屍の山が築かれています。個人的な経験の中でもそういった人たちをいろいろな場面で見てきました。
育てたい人物像をイメージ出来ているか
『最初から教えてばかりだと、考える能力が身につかない』という論もあり、この言葉が完全に間違いではないと思います。ただ、まずこれは程度問題であり、育てたい人物像と設定するハードルの高さのバランスを考える必要があると思います。
例えば本当の超少数精鋭を育てたいのであれば、ほぼ突き放してついてこれた人だけがその組織・業界に残る、ということもあり得ると思います。ただし先程も書いた通り、その後ろには山のような屍が築かれ、その道を志した100人に1人とか、もっとひどければ10000人に1人しか残らない、みたいな話もありえると思います。HxHのハンター試験みたいなものです。貪欲に自分で学習し、人のスキルなどを盗んでいく超逸材だけが残っていくことでしょう。ただし、このモデルは本当に人数を増やす必要が無い場合か、それだけ厳しい道でも志願する人が後を絶たない、といったような状況でなければ成立しないでしょう。
一方で超逸材がいなくてもいいが(いてもいいけど)仕事として100点満点中80点をちゃんととれる人が増えてほしい、という場合だと、全て「自分で勝手に学べ」モデルは非常に相性が悪いと思われます。一般的な企業や組織はほとんどがこちらに該当すると思われます。特に事業などの規模を拡大させたい場合は100人雇って1人しかものになりませんでした、では話になりません。こういった場合は先のブログで書かれていた通り、マニュアル化された作業手順や教育方法があってしかるべきだと考えます。
そもそも「マニュアル化できない」とはどういうことなのか
ちょっと自分のいる業界に偏ってしまいますが、基本的にマニュアル化できない仕事というのは、人によって過程や結果が異なることを許容する 仕事だと考えられます。以下、その例をあげてみます。
- 何かを自ら創造するような仕事(システム・ソフトウェア設計、新しい企画の立案)
- 前提条件の想定が難しく条件の組み合わせも複雑であり、条件の網羅が困難なもの(トラブルシューティング、インシデントレスポンス)
- 試行錯誤しながら進めないといけないもの(新しい機器の検証、探索的データ分析)
確かに上記のような仕事について全てマニュアル化するのはかなり難しいとは思います。しかし、全てをマニュアル化するのは難しいとしても、部分的にはいろいろマニュアル化(ないしは定型的な教育によって身につけた手順によってできるもの)できそうではないでしょうか? 例えばソフトウェアの設計などはどのような道筋でやるべきかという教本はいろいろありますし、トラブルシューティングでもまずはこれをチェックしろ、みたいな初動のマニュアルは作成できそうです。
最終的に人間が考え、発想し、創造する必要のある仕事は確実にあると思います。しかしそのためには、どこからが機械的に作業して(あるいはもう機械に作業させてもいいわけで)どこからが人間の判断の力を発揮しなければいけないか、という線引をすることが重要なのではと思います。
あと、基礎力の必要性などについてもちょっと書きたかったですが、夜更かしが過ぎてきたのでこの辺で。